あれとこれとは別のこと

「頭蓋骨を捜せ」の投稿作を説明してみるっていうことをしてみようと思う。もう、めったやたらに、あ、いや、とりあえずひととおり説明してみようと思う。
その前に、いただいた、大切な票と評を、この箱の中にしまっておきます。A4サイズの入る、背の高くない、菓子箱みたいな、ふた付きの箱です。評の中で「分からない」「不思議」と言っていただいたので、そこに説明を試みるというのはおかしい気もするので、それとこれとは別のことということで、箱の中へ入れました。もらったものが逃げちゃわないように。(笑)
別のこととは言っても、分からないと言っていただいたからこそ説明してみようという気になったのだとは思いますが……。あと「解説してもらうのも野暮だしなあ」という評の中の言葉は、説明してみようとする私の背中を確実に押しました(笑)。野暮ばんざい。でも、あれとこれとは別のこと。
 それと、話を補強する形になります。
 では。


まずまとめ:
「私」が架空の人間(作中で生まれた赤ちゃんです)を想像します。そして架空の人間は架空だったのでいませんでした、という話です。


説明:
 骨は発見される。土の中とかから発見される。それは化石と呼ばれる。化石は最初は地面の下に隠れている。見つかると、時に大騒ぎされ、掘り出され、分析されたり、保存されたり、展示されたり、想像されたりする。もしかすると、その一個の化石は、見る者を、見る者がまだ生まれていなかった昔の世界へと誘う。見る者は、それが走っているところを見る。夢見る。


 私の骨は、基本的には、私は見ない。見ないでいられるほうが、生きている上ではいいような気がする。それが表に出ている状態を考えてみると、危険な感じがするし、痛そうな感じさえする。
 というわけで、私の骨が、私の外に出ていたらということを考えると、恐ろしい。骨は、私の他の部分と離れて、一個として存在すると、もはや私とは別物という感じもする。切った後の爪のかけらなんかもそんな感じかもしれないが、骨が、そういう、私の他の部分とは離れて存在するという状況にある場合、それはもはや私が私として存在できていない場合なのでは、と思える。生命の危機。


 頭蓋骨は、脳を囲う。私、自分、自己──ここでは「思考する私」と言ってみる──は脳であるとして、頭蓋骨は「思考する私」を囲っていて、というか、私はこの「囲っている」を「形作っている」という言葉に代えたいのだが、つまり、頭蓋骨を、「思考する私」の「入れ物」であるだとか、「思考する私」をそれ以外のものと区切る「境界線」であるだとか、「(思考する)私の形」だとか、言ってみたいのかもしれない。と思ったけど、「形作っている」が一番よかったかも、ええと。
 次から話が始まります。


 そうして、「思考する私」──話に出てくる「私」もそういう存在であるが──が、自分の頭蓋骨がどうしてかは知らないが誰かに見つかって取り上げられてしまって別の物語(別の人間)が始まるところを想像──思考、する。つまり、「私」はフィクションを立ち上げようとする。この話はそういう話である。先に「どうしてかは知らないが」と書いたが、「私」は化石発見のテレビ番組か何かを見たのかも知れない。
 新しく出来上がった(立ち上げられた)人間はまだ赤ん坊で、次に出てくるのは祖父母だ。「私」がこの赤ん坊と自分を別個のものとしながら、すっかりとは別個には思えていないのは、頭蓋骨が同じだ(赤ん坊の頭蓋骨は元は「私」の頭蓋骨だった)からだ。「祖母」は現れる一瞬、「私」の祖母の面影を持っている。そういうこともあって、いきなり両親は出てこない。つまりいきなり両親では、「私」に近い存在すぎて、「私」が想像する上で、「私」の両親と赤ん坊の両親とを取り替えにくいからだ。周り(遠いもの、遠縁のもの)から固めていこうという魂胆。周りをすっかり囲ってしまえば「私」の両親は消え、赤ん坊の両親は現れるしかなくなる。脳を囲っている頭蓋骨。


 ところで、「三千円を包み、涎掛けのセット、水色のベビー服、牛の着ぐるみ、離乳食、くつ」は赤ん坊の出産祝いの品々を、わりとそれが使われる時系列順に並べたつもりだった、ような淡い記憶があるようなないような。赤ん坊だった人間はやがてくつを履いて一人歩きしていってしまうのだ。牛の着ぐるみをもう一つ後にするんだったと思った。なぜ牛なのかっていうのは丑年だからとちらっと考えたんだけど、どうでもいいですか。えへ。評の中でここをとりあげてリアルって言ってもらえたけど、よかった、5000円とか1万円にしなくてよかった、いやそれは何の話だ。戻します。
 話全体が「私」が立ち上げたフィクション(というか想像)なので、その中で、この部分は小さな作中作みたいな感じに思ってもらえないだろうかなと思ったりした。全体が非現実的なフィクションで、その作中作は変にリアリティがあったら、いいんじゃないかなあって。羅列だから、作中「作」っていうのもおかしいかもしれないけど、えっと、ここにこそ言葉を費やさねば(笑)、出産祝いって、フィクションじゃないでしょうか。
 もちろんすぐに使われるものをあげることもあるでしょうし、現金ってのもあるだろうし(出産祝いをフィクション=小説とするなら現金はその中でもファンタジー! って、全然横道。退散)、今後使われるだろうものっていうのもあろう。今後。ここでは特に、くつとか、離乳食とか。今後という、”まだ起こってない未来”を想定(想像、とは言いにくい、さすがに)して物をあげているということ。もちろんそれは、かなり現実的な想定ではあるけれど。まだ起こっていないことを想定しているからフィクション、じゃ飛躍しすぎ? 通じないかな。
 ここで、「私」が「赤ん坊」を立ち上げていく想像していく、その想像された(非現実な)物語をフィクションと呼ぶことができるなら、赤ん坊の成長を想定する、その想定された(現実的な)物語もフィクションでよくない? 物語、というには、ただの羅列だけれども。と、さて、ちょっと思い入れてみたけど、微妙? ちなみにこの部分は、後付けでした。では。


 赤ん坊を発生させた「私」はふと困ったことに気付く。赤ん坊、祖父母、近所の人、両親、と赤ん坊を中心に新たな登場人物を続々と立ち上げてきたが、ここにいる自分は一体何なのか、何の役として登場すればいいのか、という問題(ナレーションの役じゃ駄目なんだろうか。笑)。そこで目をつけたのが、父のさらに父の母である、曾祖母である。「私」にとって、その曾祖母、というか、すべての曽祖父母はほとんど馴染みのない人間であった。身近な存在である祖母になっている(成り代わっている)「私」は想像できないが、曾祖母になっている「私」くらいならば想像できるかも、と思うわけだ。「私」にとって「私」の曾祖母が遠い存在であるのと同じように、赤ん坊にとっても、赤ん坊の曾祖母は遠い存在であろう。この新しく生まれつつある「赤ん坊の物語」に出てくる登場人物の中の曾祖母役で、よし、行けるかも。


 といったんは思うのではあるが。”私は私でない”のだった。「私」は頭蓋骨を持っていないのである。なぜならば赤ん坊がそれをもっているから。頭蓋骨は「思考する私」の入れ物である。たかが入れ物、と思うなかれ、「思考する私」はその入れ物に宿るのである。だからこそ赤ん坊、つまり新たなる「思考する私」も生まれた。ところで、曾祖母というものも頭蓋骨を持っているのだろうし、だから頭蓋骨を持っていない「私」は曾祖母の真似なんかできないし、とにかく頭蓋骨を持っていない「私」はもう「私という思考主体」なんかではないのだ、いや、なんだよ、それって今ごろ……、と拗ねて思っている「私」もまたいったい何なのか、「思考する私」がいないのに拗ねる、悲しむのはおかしかったなあ、って今更かよ、まったく、今まで一体何を考えてきたんだか、と「私」は「赤ん坊の物語」を考えるのをもう、やめよう。やめた。そして「私」の頭蓋骨はまだそこにある、たぶん。隠れていて「私」には見えないが。




読んで、もし、なぁんだつまらん、と思ってもらったら少なくともある面では成功したってことだ。説明も、投稿作も。
でもそんなことの前に読んでもらったらありがたく思います。っていうのは最初に置くべき?
長いし。ありがとうございました。